桜襲

f:id:fun_yui:20200203231209j:plainf:id:fun_yui:20200203231110j:plain夜更けに目が冴えて。

文机に向かい
気が付けば憂いを含んだ短歌ばかり なぞっている。

障子を開けて空を見上げると
蒼月が冷たい光で躰を照らす。

誰も求めない、何も求めない
そう思えたらどれだけ楽だろうか。

消えていくもの
立ち去るものは
美しくて 
残された者の
それから、は
誰も物語にもしない。

物思ったところで
変わるわけではない。
まだ夜明けまで
時間がある。
休もう。

そう思って帳に戻り
そっと身体を横たえる。

…流れ込んでくる… 記憶?
あれは、いつの頃の私…

…お方様。…
七重様…

今宵は色よい返事をいただけるまで帰りません。
私の気持ちは とうにご存知のはず…。

「高彬様。
 何度通われても
 私は変わりません。
 申し訳ありませんが
 今宵はお帰り下さい。」

「何故 なのですか。
 せめて訳をお聞かせ下さい。」

「父を亡くし、大した後見も
ない身です。 
紫苑様にお仕えして
日々の生活を過ごすだけで
恋をする余裕などございませんので。」

「宮にお仕えしていても
 恋をすることは出来ます。
 
 待っておられるのでしょう。
 あの方を。
 今何処にいるのかもわからない者を。

「そう思われるなら
そうお思い下さいませ。
それでは。」

御簾の奥から局に
戻ろうとしたその時に

身体ごと抱きしめられた。

「お離し下さいませ。」

「離しません。
 
 本当にお嫌なら、
 全力で拒んで下さい。
 
そうされたら、退きますから。」

あの方譲りの強引な所に
何故か、その挑発に乗ってみるのも有りかと心が動いて。

そっと身を離して。

「こちらに。」

そっと襖を閉めて。

「少しこのまま話がしたい。」

仄かに灯を落とした帳台で
白綾の単衣だけを纏った高彬様は、貴い方の御血筋を引いているだけあっての気品と、雅さが零れていて。

物思いに心身が窶れた我が身を
振り返ると、灯りを落としたとはいえ間近くで見つめられるのが耐え難い心持ちでした。

「もう少し灯りを落としますね。 
仄暗いくらいでないと
身の置く場所にも困ります。」

「このままにして欲しい。
 ずっと憧れ続けていたのです。 
もっとよく見せて。
私を見てほしい。」

ああ、よく似ている。
声も。しなやかな指の形さえ。
その身を今宵は私に
 預けて下さい。
 何もかも忘れて。」

そう囁かれる言葉に。

せめて束の間でも
夢を見てみたくなった。
あの頃の私は そう思うくらいに
絶望していたのかもしれない。

そっと頬に触れる。
優し気な、名工が精魂込めて造り上げたような切れ長の瞳。
光を受けて菫色がかるのも
すべてが愛おしく感じられた。

起こる事など無いと思ってきたので、不安でしかなかったけれど。

「そのままで。
そのままの七重様が見たい。」

高彬様の、その言葉に。

何かが弾けた。
それからの
時間は、
疾く早く過ぎて。

「もう夜が明けます。
お戻りにならなくては。」

「つれないお言葉ですね。
 こんな可愛い人を
 まだ離したくない。」

「それはどうでしょうか。
あちらこちらで花を摘んでいるのでは。」

心外だな。
 野の花が如何に可憐でも
 むやみに手折ったりは
 致しませんよ。
 
大切に守っていたい花だけで
いい。」

「ありがたいお言葉ですが。
本当に日が上ってきました。
参内される刻もおありでしょう。」

「そうですね。
 ずっと、こうしていたいが。
 今日は、宿直明けの和と
 打ち合わせないといけなかったか。」

静かに身を起こして、
高彬様は、もう一度
型を取るように
そっと 少しだけ長く
私を抱きしめて。

「名残惜しいけれど。
 必ず今宵また来ます。」

優しく口づけを落とされて。

身支度を整えられて
私の局を出ていかれました。

そのお姿を見送って。

少し苦味を帯びた感情が
流れてきて。

この年になって
また新しい物思いを
抱えてしまった。
そう、思いました。

それから直ぐ

後朝の文が届き。

細々と優しいお言葉が
綴られて。

「先程まで側にいたのにもう
直ぐにでも恋しくなります。

司召が終わったら
飛んでいきたいくらいに。

時刻を飛ばせる術は
ないものかと。」

思わず微笑むような
素直な文面に。

その直情を

私は
いつまで受け続ける事が
できるのだろうか

その気持ちもすぐに感じました。

それからの
日々は

絵に書いたような幸せと
遣る瀬無さとが交差して。

やがて訪れも途絶えて。

高彬様は 左大臣家の佐江様の婿になられて。

本当に時が経つのは
矢のように速く感じられます。

あの当時は 遅く感じたけれど。

そして

もう高彬様とは
二度とお会いする事はないと
思っていました。

あの春の日まで。


「梢。 先に帰っていて。
少し歩きたいので。

「七重様。大丈夫ですか。
お一人で歩かれるなど。」

「大丈夫。
 すぐ戻るから。」

何となく、一人で歩きたくて

咲き乱れる桜花を
見ていたくて。

歩いていた。

そこに 五歳ほどか。
利発そうな男の子が
駆け出してきて。
転びそうになるのを
咄嗟に受け止めて。

「大丈夫ですか。
 供の方や母御から
離れてはいけませんよ。」

そう話しかけると。

「はい。
ありがとうございます。
母上に、桜を見せたくて。
一番奇麗な木を見つけたので。」

しっかりとした受け答えに

「それは良いお考えでしたね。
母御が いらっしゃるまで
ご一緒にお待ちしましょうか。」

賢そうで可愛らしいその子に
ふと昔を思い出されて。

零… もうこの子より
大きくなっているであろうな。
えていると。

「奏。 こんな所まで。
走ってはいけないと申したでしょう。」

鈴を転がすような 明るい声が近づいてきて、

「母上。 ごめんなさい。」

ふと、見上げて
もしかして と感じた。

「申し訳ございません。
そぞろ歩いていた所に、ご子息が駆け出してこられて。
一緒に桜を見ていました。」

「そうでしたか。それは、息子がお世話を
おかけしました。
ありがとうございます。」

聡明そうな、でも勝ち気さを
纏われた美しい女人に。

この方が佐江様かと
何となく感じました。
すると この子が。

「それでは失礼致します。」

「ありがとうございました。またご一緒に桜を見て下さい。」
その子が言葉にしてくれました。

忘れかけた頃に

主上が催されたの春の宴に招かれる機会があり、

躊躇いもありましたが
悠花様の箏と
智様の舞に心惹かれて(滅多に目にする事など、ないお二人ですから)
末席に連なる事になりました。

その春が

少し心に漣が起こる
きっかけと
なる事に
気もつかずに。


春の宵の事でございました。